当会は創立70周年を迎えた横浜市立大学山岳部のOB、OGによる親睦団体です。

会員エッセイessays

会員エッセイ

近況報告/松浦 宏(1964年卒)

 昨年末、山岳部OB会ホームページのご案内をいただきながら、すっかり失念しておりました。
 昭和39年卒の松浦宏です。突然のメール、驚かないでください。
 在職中も、その後もばたばたと相変わらずの毎日です。世間では貧乏暇なし、というのでしょうか。老老介護の役目も無事終え、40年間連れ添ったパートナーと文字通りの老後を過ごしております。
 直近の山のニュースでは、富士山の世界遺産でしょうか。喜んでいいのか、どうか分かりませんが、現役時代、厳冬期に登ったことを懐かしく思い出しております。早くも登山者が殺到、ということですが、数珠つなぎの登山者の光景はどうも感心しません。なにより自然破壊が心配です。
 岡山県には千メートルを超す山が60座ほどあります。日帰りには格好ですので、思い出したように歩いています。
 一昨年、古稀を迎え、今年は年男です。体の経年劣化をいやというほど思い知らされる毎日です。梅雨明けはまだ(*)ですが、連日の猛暑。熱中症を気にしながら、それでも古い友の誘いには喜んで出かけております。

 折に触れて便りをします。お元気で。

*)実はこの日(7/8)の午後、梅雨が「明けたらしい」と気象庁から発表されました。

(2013年7月) 


○○○○○○○○イメージ

エアーズ・ロック/松田孝(1954年卒)

 例年西オーストラリア・パースを拠点として、ワイルドフラワートレッキングに出かけて居ますが、今回は足を延ばし中央オーストラリアのウルルーカターチュタ国立公園を訪れ、エアーズ・ロック、オルガ岩群をトレッキングしました。
 エアーズ・ロックは砂漠の中にポツンと置かれたお供え餅の様な型をした赤い一枚岩で、原住民アボリジニの聖地として登降ルートは一本に決められ、レンジャーに依り厳しく管理されて居ます。
 訪れた日は頂上の風が強い為、ゲートのオープンが10時となりました。高さは350mですが、初めの500m程度が斜度20〜30°、足掛り・手掛りの少ない雪崩に磨かれたスラブ状でした。急所には鎖が張られ、その先は5〜10°程度のなだらかなルートで約1km。草木は一本もなく直射日光にまともに照らされ、水1g以上の携行が義務づけられるのも当然と思いました。眺望が良く高度感があり、バランスの悪くなった老人には緊張の連続でした。
 体力が許せば、ヒマラヤ・ランタン谷のフラワートレッキングに出掛けたいと思っています。

(2012年12月)


○○○○○○○○イメージ山への想い/島村昌孝(1956年卒)

 あまり正確な記憶はありませんが、1941年(太平洋戦争開戦の年)の夏のこと、兄に連れられ、御殿場駅から歩いて山中湖を訪れたのが、私と山との初めてのご縁でした。美しい湖水と、その背景の富士山を見た印象は強烈で、以来山の魅力にとりつかれてしまいました。
 中学、高校時代は仲間と、時には単独で、丹沢や奥多摩を訪れました。
 その後のある年、単独行で奥秩父の笠取山を訪れ、笠取小屋に宿泊し、小屋のご主人との交流を通じ、山と人との関わりの魅力にとりつかれてしまい、いわな釣りや狩猟などに連れて行ってもらい、ますます山の魅力に引き込まれていきました。



        北岳山行。徒渉中の筆者(昭和26年夏)

 横浜市大に入学し、すぐに山岳部を訪れ、入部を果たしました。そしていよいよ南アルプスの山行に参加し、さらに山の魅力にとりつかれました。
 当時の大学山岳部は、「シゴキ」という過酷な指導が指摘された時代でしたが、大野先輩はじめ、先輩各位の温かいご指導によって、私の山岳人生はとても充実したものとなり、今日に及んで居ります。
 今日では、世界中の山々が比較的容易に登山の対象となりつつあります。
 若い部員の皆さんの夢のふくらみに、大きな期待を持ちつづけます。

(2012年12月)


○○○○○○○○イメージ

初めてきました 山岳部HP/加瀬健一郎(山岳部主将)

 ご無沙汰しています。山岳部3年の加瀬です。
 今夜からの富士山行参加できないのは自分としても非常にもったいなく感じています。そしてこれだけの支援をしていただいたのになんだか申し訳ない気もちです。
 今回は装備的にも時間的にも(7日までのレポートがあと3つ‥)苦しかった。
 山の装備は高いっ!べらぼうな値段です。結局揃えるには至ってません。
でもやっぱり山岳費を自分に使うのはどうなのかなと思いました。もし使うのならば、そういうお金は長岡や大宮のように若いまだまだ先がある人達にこそ使ってもらうべきかなと。自分はこれから消えていく身なので、そこに使うのは違うかなと。
 だから今回、山岳部の部費・皆さんから支援していただいたお金を使えば自分の装備を揃えることもできましたが、そうはしませんでした。ちょっとそれは頼りすぎですしね。藤岡も同じ考えだと思います。
 来年も新歓をします。新しい部員達が入ってくるかもしれません。そういうときにこそこういったお金を使うべきかなと思います。

 皆が無事に戻ってきて、長岡・大宮両名も新しい何かを得て、感じて帰ってきてくれたらいいなと思います。そして自分にもそれを伝えて欲しいなーと。
 大学生活も4年目が終わろうとしてますが、卒業まではまだまだたっぷり時間があるので(消えていく身といいながらあれですが‥)、ゆっくり教えてもらおうかと思います。

 私事ですが、4月からしばらくネパールへ逃避しようかと思っています。
 現地の宗教やそれに関わる人々に絡んでこようかなーと。寺にはいって修行でもしてきます。
 ヒマラヤのトレッキングルートもいくつか歩いてみたいなと考えています。
 そういうわけでしばらく日本から消えるつもりです。よろしくお願いいたします。

(2010年2月)

○○○○○○○○イメージ

ボルダリングin豊田 その1/松林孝憲(1997年卒)

 先日の山岳部OB会総会大変お疲れ様でした。もういないのではと思っていた現役と交流が出来、こちらも活力をいただきました。
 てっ、なわけで私の最近の活動の初投稿いたします。
 名古屋に越してきて早2年が過ぎ、子供の誕生等々諸般の事情で、この2年間山と縁遠い生活となっていた。しかし今年4月心境の変化というより体型の変化?を機に心機一転、東海岩巡りをはじめる。こちらでは山仲間がいないので、必然的にボルダリング中心のしかも子供の昼寝中というかなり時間限定で近場の岩巡りとなったが、その中で豊田の岩場を紹介。まずは概況から・・。
 豊田市外から5km位東の丘陵地帯に点在する岩場の総称を「豊田の岩場」といい、フリークライミング主体の岩場。 内容は、ルート(ロープを使う)も多数あるが、ボルダリングも盛んで、現在では殆どボルダリングの岩場として見られている。また未だに新しい岩が発見・開拓され続けており、なかなか全容がわからないという東海随一、いや日本でも有数のボルダリングエリア。
 岩は、目の粗い花崗岩でフリクションはいいが、指の皮の消耗が激しい。シーズンは、やはり低山のため夏以外。夏でも場所を選び、虫(主に蚊・6月は+毛虫)の攻撃を耐えれば問題ない。
 金ない、時間ないパパクライマーは、それでも行く。そのパパクライマーの活動詳細は、次回報告にて!!

(2009年6月)


ボルダリングin豊田 その2/松林孝憲

 豊田の岩場の中で今回は、「大田城址」を紹介。
城址とあるので、何かしら歴史のある地か調べてみるが不明。しかしここら近辺「松平の郷」といわれ、あの徳川家に縁はありそう。
 そして今回の大田城址の岩場は、数十のボルター(大きな岩ころ)で構成され、ボルダリングのみ。コンパクトにまとまっていて、あれもこれもというミーハーな私にはうってつけ。
 最初は、大岩と呼ばれるところにいく。まず大岩の頂上へ。ボルダリング課題ではないが高さもあり緊張する。頂上は見晴らしよく、豊田市街が見渡せる。
 その後大岩基部のハング下クラックをトラバースする課題へ。トラバース自体は簡単だが、ハングを乗っ越しフェースを左上するとグレードが跳ねあがる。ムーブの想像もつかないのでやめる。
 その後も低グレードを中心に攻めるが、マントリング課題は結構必死になり、足を結構擦り剥く。
 やはり関東とは違い、人気のない岩場(時期が悪いだけか?)で黙々と続けるが、マットもスポッターもないのを理由に低グレードを一通り触って満足、満足。そして夕飯に遅れなぬよう家路を急いだ。
 大体これがいつものパターン。


写真「大岩」頂上へ。結構高さがありフリーソロ気分。
実は写真に載っていないところに・・・がある。


写真 ハング下クラックをトラバース。移っていないが写
真左に抜けハングを乗っ越しフェースを左上するととて
も難しい。見たところ花崗岩の結晶を持てれば可能か?

(2009年6月)


○○○○○○○○イメージ

ボルダリングin豊田 その3/松林孝憲

 豊田の岩場で忘れてはいけないのが「古美山園地」。おそらくここから開拓が始まった?と思う。多少公園らしく整備されていて、岩も非常によくまとまっている。アプローチもないに等しい。(古美山園地に限らず豊田の岩場はどこもそうだが・・)。構成としては、フリーのルートが1割で残り9割がボルダー課題といったところか・・。そして
 この蒸し暑い時期でも比較的人と会うことが多い。それだけ人気エリアなのであろう。また出会う人皆フレンドリー。快くボルダリングマットを貸してくれ、おすすめ(簡単な)課題も教えてくる。偶然にもその課題が登れてしまったら、すかさず次の課題を紹介してくれる・・・。ちょっとシンドイ。

 実はこの古美山初めて来たのは名古屋に来てすぐの2年前。生まれたばかり(2ヶ月)の息子を引きつれ、父の勇姿を見せるべく乗り込んだ。が、あまりの難しさにお茶を濁すしかなかった。またゴザの上に放置されている2ヶ月の赤子とその脇の岩にへばり付く父。異様な光景だったかも知れない。

 写真は、その時のもの(岩の感触を覚えさそうとしている!!??)

(2009年7月)
 

○○○○○○○○イメージ

新年明けましておめでとうございます/吉見敦司(1994年卒)

  昨年は空梅雨や台風がないなど天候にも恵まれ、まずまずの実りでした。津久井での生活にも慣れ、新たな出会いにも支えられて楽しく過ごすことができました。今年4月には3人目の子供が生まれる予定です。皆様にとって今年が素敵な一年になりますように!

お変わりなくお元気でしょうか?
津久井は自然と文化が程よく混在していて気に入っています。

(2009年1月)

○○○○○○○○イメージ

新年明けましておめでとうございます/吉見敦司

  昨年は1月に津久井に移住し、農業も生活もどうなるかと不安な中で始まりましたが、たくさんの素晴らしい出会いに恵まれ、トマトの出来も売れ行きもよく、どうにかやっていけるのかなとホッとしています。 田畑は丹沢・大室山の麓にあり、なかなか良いところですので、ぜひお立ち寄りください。皆様にとって今年が素敵な年になりますように!

  お変わりなくお元気でしょうか?移住1年目はぼちぼちのスタートでした。
  農業の楽しさと難しさを改めて感じています。
  田畑はネパールの山村を思わせるようなところです。

(2008年1月)

○○○○○○○○イメージ

山人生@/竹端節次(1961年卒)

  私は東京生まれ(1938年=昭和13年)、東京育ちで、大田区馬込小、中学校、都立城南高校、横浜市立大学を卒業して、社会人となり静岡県立の高校教員として37年間勤務し、退職して民宿「さわらび荘」を営み9年、68才になった。
  その間ずっと山に係わってきた。戦争中疎開した山梨県身延では富士川と甲斐の山々を見た。小学校1年生で身延山久遠寺の長石段を上った。東京に戻った小学時代は遠足が楽しみで高尾山に行ったことを覚えている。中学時代にはボーイスカウトに入団、キャンプ生活や影信山など何回かのハイキングに行った。高校時代は山岳部に入り、穂高岳夏山合宿や奥秩父冬山合宿に参加した。また北アルプス裏銀座や金峰山や甲武信岳の単独行を行った。大学時代は知床遠征、毎年の北または南アルプスでの夏・冬山合宿、谷川、穂高、剣の岩登りなどを経験した。
  就職した最初の森高校(4年間)ではワンダーフォーゲル部を創設、生徒達を南アルプス聖岳につれて行った。転勤した御殿場(3年間)、沼津商業(14年間)、三島南(16年間)でも山岳部(登山部)の顧問をつとめた。
御殿場高校在籍はたった3年関と短かったが近くの富士山によく登った。そして高校に頼まれて今の須走口五合目に高校のキャンプ場を開いた。もちろん生徒とは鹿島槍ケ岳等に登っている。1968年8月5日八方尾根で私達は結婚式をあげ、そのあと(新婚旅行)鉢伏山〜ニツ山縦走を行った。
 沼商初の夏山合宿(1969年)は聖岳だったが台風で畑薙ダムまでの林道と大井川鉄道が不通になった時は帰宅が困難だった。沼商の女子夏山、鳳風三山合宿、(1977年)では私が地蔵岳のオベリスクの上に立って生徒達を鷺かせた。
三島南高最初の年(1983年)は何とバスケット部の顧間、強いチームだったので勝ち進むのが楽しみだった。登山部の顧問は2年目からでそれからずっと登山部の廃止まで南北アルプスめ夏山合宿とスキー合宿を行った。1996年、学校の方針により登山部員が存在するのに登山部が廃止となったのは非常に残念であった。私は強く抗議したが聞き入れてもらうことはできなかった。前年の7月31日〜8月2日、大越、杉山、関谷3人の生徒と私4人の北岳合宿が最後となった。
 沼商時代、三島公会堂でまかれたビラを友人が見せてくれたのがきっかけで私は創設間もない三島労山に1973年入会した。それから10数年間伊豆HC創設の1987年頃まで三島労山の仲間と山行を共にするようになった。白馬、五竜、鹿島、燕、穂高、剣、木曽駒、南駒、甲斐駒、仙丈、鳳風、北岳、悪沢、八ケ岳、奥秩父、日光白根、丹沢、愛鷹、そして寡士山な。ど何百回となく登った。それまで健康そのものだった私だったがお酒を飲み過ぎたせいか40才代後半、高血圧に悩まされ、医者に「冬山は危ない」といわれるようになった。そこでハイキングクラプの結成を思いつき三島労山に話し、山木米三郎さんや毛利哲也さんたちに手伝ってもらいいよいよ1987年の秋創設どなった。そしてあっという間の20年間だった。この間1990年には登山教室を開設し、退職後もこれを続け現在に至っている。 

○○○○○○○○イメージ山人生A/竹端節次

 伊豆HCが結成された頃には三島市梅名に住んでいて子育ての真最中だった。私は48才三島南高勤務、妻則枝は39才、三島市立の保育園に勤務、子供は3人高、中、小学生。
 長男桂一はもう山にはあまり行かなくなり、次男の岳も高校受験で行けなくなって、三男の小学生の文芸だけがよく伊豆HCのハイキングに同行すること。になる。個人山行ではこの年の夏休み会津駒ケ岳へ桂一と文芸と3人で登っている。桧枝岐では今の民宿星の家の前身のまるはち分館に泊まった。私は三島労山、三南高登山部とかけもちで、夏山は槍ケ岳(三南)、冬山は燕岳(労山)に登った。私の友人高島氏の所属する山登歩勤労者山の会もこの年に創立、9月に結成登山に招かれ、八高山に登った。
 伊豆HCの結成登山は11月22日発端丈山、それから12月20日天子仙、1月24日神山、2月26日岩戸山、3月20日矢筈山と着々と定例行事を重ね、順調に活動がスタートしていった。
 そして年を重ね、あっという間に20年たった。その間、定例、会員行事などあわせておそらく何百回も会員と山に行った。今年の正月私の1500回目を沼津アルプス参加の皆さんに祝ってもらったが、800回目を1994年9月、恵那山で祝ってもらったことがとてもなつかしく思い出される。北海道の大雪山、両阿寒岳、十勝岳、幌尻岳、斜里岳にも、允州の祖母山、九重山、阿蘇山、由布岳、韓国岳、高千穂峰、開聞岳、屋久島にも、はては西表島、奄美大島にも伊豆ハイクの仲間と行った。また2005年1 1月の皇海山百名山完登時には丸山夫妻、吉川夫妻、斉藤ふさ子、原田恭子、仲本浩子会員らに付き添ってもらった。
 運営面では事務局長をずっとつとめ、木曜日はほとんど欠かすことなく事務所に通った。
 総会、運営会、例会すべてを立案した。忘年会などの年中行事も私が提案し、皆の了解を得て実施してきた。でもこの頃伊豆八イクのさらなる継続と発展を顧うとき、この役割を譲る時が来たかな、と考えている。だれか新鮮な発想とパワーで会起こしをしてもらいたい。大石会長がはりきって会議ごとに出席するようになったのはありがたく、伊豆ハイクの20周年後は大丈夫という気がする。
 役を退くといっても私の性分でだまっているわけではない。会山行と運営についていろいろと提案していきたい。幸い永年の経験で地図読みと植物観察は得意で、これらを目的に楽しい行事を組んで会括動に参画していきたい。

 なぜか現役時代より退職してからの方がいそがしくなったと思う時がある。則枝は 「自分がいそがしくしている。手を引きなさい」という。でもやめられない事が多い。
 山行以外の毎日は、朝食の支度、洗濯、書きもの、買物、夕食の支度で暮れ晩酌で一日が終わる。あい間の野菜作りの仕事は楽しい。はやらない民宿にも時々お客さんが来る。
 山行と重なる時はお客さんにていねいに「定休日」とか「ガイドで出張」とか話しおことわりをする。
 みそ汁作りは今でも私の役割である。
 「お父さんの作ったみそ汁はおいしい」とかって口をそろえて家族4人がいった。炊事を私がやるようはめられたのだ。もっとも私のみそ汁歴は古く、すでに高校山岳部の合宿で作っているのである。
 今の季節はゴーヤがうちで穫れるので、毎日のようにゴーヤチャンプルをつくっている。
 三枚肉と固い豆腐と餅を入れる。ピーマンなどほかの野菜を混ぜる時もある。はじめてゴーヤチャンプルを食べだのは1994年1月2 5日石垣島の朝日食堂での昼食時だった。そのあと沖縄県の最高峰の於茂登岳(526m)に登った。
 則枝が言うようにいそがしさを自分がつくっているのかもしれない。登山教室は、07年会修善寺(9人)講座と函南(47人)講座、2年生、3年生合同(36人)の修善寺講座の3つ。月1回の講座と、日曜とウィークデーの2回の実技山行、それにOBを対象に行う月1〜2回のさわらび企画山行がある。天城山ボランティアガイドクラプと大学山岳部OB会の会長も引き受けている。深くはまって山人生から決して抜けることができないだろう。
 しかし私は幸福だ。なぜか。それは長年好きなことを十分やってきた上、父母とも95才で母は少し弱ったが元気で2人で平塚の有料老人ホームに住んでいる。私は3人兄弟の長男、2才下に妹、4才下に弟がおり、藤沢市と川碕市に住んでいる。則枝も私にあまり迷惑をかけずに自律して働いている。子供達3人も健在だ。しかも長男はイカつりにこの春何回も連れていってくれた。三男も、アマゴつりに付き合ってくれた。
 以上父母の長寿、平凡な家庭生活、そして山登り ずっとこれが続くことを願って筆を置くことにする。



バナースペース

横浜市立大学山岳部OB会HP管理人

Mail:tmr7435@outlook.jp
(田村康一/1990年卒)